昭和46年8月20日 朝の御理解 ★ 【入力者:岡村和一郎】
御理解第36節
「日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ。人に物を頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。」
事の道理と申しましょうか、これほど、おー、事の道理をはっきり教えられてあるのですから、たしかにそういう、ね、棟梁が何人もおったり、(先祖?)が何人でもおったりすると、物事はかどりません。
誰かが一人責任者がおって、その責任人にしたがって、事が進められると。棟梁の、いわば、( ? )大工も左官も動くということになって、はじめて、えーほんとの仕事ができるだろうと思われるように、信心もやはり同じこと。そこんところの道理を教えておられるわけですね。
(あまり日本国中どころか?)、もー、世界中の神様を拝むという人がいますね。この頃から、( ? )あらたかな神様がでけたといや、もう日本人(ばーっと?)その神様信心する。ね。
それでやっぱり仏教だって、キリスト教だってそうですよね。仏教は、インドのお釈迦様が始められた宗教。キリストは皆さんがご承知の通り。いわゆる、えー、だから日本国中だと言わない(?)。ね。
できたら、うーん、私ここのところは、こう聞かせて頂きますと、なるほど道理だなと思います。ね。ですけれども、うーん、なら皆さんも場合、どういうことかというと、朝参りもなさる方ですから、他に、(なんなん様?)も拝めるていう人はまずなかろうと思う。ね。天理教の神様を拝みなさる方もなかろう、キリスト教の神様を拝みなさる方もなかろう。 なら仏教はまあ、改式しないところはね、先祖(伝来?)の仏様を拝みなさる人は、あるにしてもです、もうその程度のことであろうと。
やっぱり願うというたら、信心を分からして頂こうというたら、やはり、金光教の信心によって信心を分かろう、おかげを頂こうとなさる方ばっかりなんです。「(?)草木でも芯といたら一つじゃ」とおっしゃるが、皆さんの心もだから一つなんだと。ふん。
神信心もこの心を、この一心を出すと、すぐにおかげが受けられると。ね。ところが、それをおかげとも感じ切らない、、または、おかげを受けていないとするならば、こりゃちょっとおかしいことになる。
(むこう?)私はもう先祖代々から金光様の信心一本だというてもです、すぐにおかげが受けられるとおっしゃるのに、そのすぐに頂くおかげをおかげと感じ切らず、ね、事実、かたくなにもおかげを受けていないとするなら、こりゃ教祖様が嘘をおしゃっているような感じ。
教祖様が嘘をおっしゃっておるとは思われない。のですから、私どもはどうでも、ね、私はたしかに金光様一心、金光様一本で、一心に神様を念じ、拝してもらえる、信心さして頂いておるのに、どうしておかげをおかげと感じ切らんのだろうかと、いうところにですね、お互いが大きく疑問を持たなきゃいけない。そして、その一心がまだ本当なものでないこと、ね、神様へ向かう、その願いのそれも、本当では、あー、ない。
私は昨日はもう朝から、体が調子がよくなくて、とりあえずそのー、まあそれこそ、寝たり起きたりで御用させてもらいました。もー前夜祭を終わして頂いて、すぐあの、( ? )来て頂いておりましたから、もう私はこのままご無礼してから、休ましてもらうからと言うて、もう、早く休ましてもらった。というほどに、体が、あー、悪かった。 それでもやっぱり、いつも習慣ですから、あー12時頃になると、やっぱり一遍起きてまいりまして、最後のご祈念をさしてもらう。もう皆さん、ほとんど御用がずっとでけて、えー、もう休んでおられる方もありまん、何人か、起きておられる方もあるというような時であった。
(特に?)皆さんが一生懸命さ、いわゆる今日の20日の祈願祭を迎えさしてもらうために、もうそれこそ一生懸命に御用をなさった。ね。まあいうなら、用意万端整うた。いつでも御大祭が仕えられるだけの準備がでけた。いうなら、人事の限りを尽くすことだけは尽くしました。
ま、だからこれから先は、もう神様にお任せしたり、おすがりしたりするより他にはないと。よくもう申しますよね、信心のない人達が申します、ね、「人事を尽くして天命を待つ」といったようなことを。
今日の御大祭の( ? )すむようなことも、やっぱりした。皆さんがもうほんとに一生懸命、に、おかげを頂かれて、もうおそらく12時頃までかかったのでしょう。おー、準備完了した。
いわゆる準備、お祭りを仕えさして頂く準備だけはでけた。これから先は、神様のおかげを頂くよりは他にはないと、神様にすがるよりは他にはないと、思う。いわゆる、人事の限りを尽くしました、これから先はどうぞ神様よろしゅう、ということ。
はたして、それでなるほど、神様が聞いて下さるだろうかと。私、昨日そのことについてから、お礼を申さして頂いて、私もそう思うた。皆さんが人事の限りで尽くされた。おかげで、準、お祭りさせて頂くための準備はでけた。明日はもう、おー祭員の先生方が来て頂きさえすれば、いつからでもお祭りが仕えられるというところまで、おかげを頂いた。まあ、ちょいとこの準備がでけとらんけん、待って下さいということも、何もいらん、だけの準備がでけた。ね。
いうなら、まあ、人事の限りを尽くして、その準備がでけた。ところがね、一生懸命に精進したから、努力したからというて、そうしてまた(えがった?)からというて、おかげが頂けるもんじゃないのです。今日はね、ここんところを一つ分かって頂きたい。
あはあ、一心、に、えー、「芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐにおかげが受けられる」という、「すぐにおかげが受けられる」というところを、( ? )。よく分からして頂かなきゃならんとこだと思う。ね。
いわゆる、一生懸命精進したと。一生懸命人事の限りを尽くしたと。これから先は、天命を待つ以外はない、神様におすがりするより他にはない。いや、もう神様にはお任せ、後はするだけだと。
いかにもそれは、立派なことのようであるけども、いうなら、天命を待っておかげを頂くか、はたしていうなら、人事を尽くしたから、後は神様お願いしますと、お願いしておかげを受けるか。うん。どこかが狂ってる。おかげにならない。
そしたらね、神様からこういうことを、私頂いた。★うーん、まあ分かりやすく申しますと、ね、例えば、ご大祭ならご大祭を奉仕さして頂くために、もう前々からご準備がある。ここ2、3日は、もうそれにかかりきっておられる方達もある。
そういう、例えば、そのための御用を一生懸命される。される中に、真心一心をもってそうした御用をさせて頂いておるつもりだけれども、やはり、イライラがあったり、モヤモヤがあったり、まあつまり自分の思うようにならんと思うて腹が立ったり、たくさんの人が一つのことに向かって進むのですから、その思い方がそれぞれに違う。
あたしは赤がええと思う、んにゃ、あたしは白がええと思う。争いはせんでも、そのどちらかがこらえなきゃならん。「あの人の強引な人じゃ」と。そこからもう、身を入れてすることもなかごつなってくる、片一方は。というようなことがございます。これは(来世?)を迎えるに当たってだけじゃありません、日常の中にこれがあります。ね。
ですからね、神様に人事を尽くして、おかげで、ご大祭の準備が完了致しました。後はよろしくお願いしますという、その人事とは。どこに焦点を置くのかというとね、その時点時点において、その場その場において、そのことをです、有り難く受けていくというこを、一生懸命努めさして頂きますと、あとはどうぞよろしゅうお願いしますということであったら、もう絶対のおかげです。ね。
これはもう大祭のことではありません。一時が万事そうです。(?)の(先生?)はとっても熱心だ。何十年も経っておられる。それでも人が助からん。どういうことであろうかと。私はそこのところをです、そこのところの焦点が合うてない、そこのところに一心を立てておられないからだと、私は今日は思いますね。
それは全然、そのことが精進しておられる。また(言うたりしてしておられる?)ことが、神様の心にかなわんことばっかりじゃなかろうけれども、せっかくの、うーん、有り難い神様を頂きながら、おかげを現わしきっていないということは、それこそ人事の限り、精進、努力は一生懸命しござると。
そりゃもう珍しか、(ふつう?)あげな真似できんっちゅうごと努力する(ござる?)。ね。けれども、例えばこれは教会でいうなら、人も助からん、人も集まらん、ご自身も助かっちゃござらん。これは先生、教会だけのことじゃありません、皆さんの場合でも同じことですが。
これだけ毎日日参しよる、もう10年も20年も続けておる。それに、例えば、「一心を出せば、すぐにおかげが受けられる」と言われるけれども、それどころの一心がすっきりとしてない。その一心の持っていきどころがです、日々を駆け来るその事態そのものをです、「今日も大変なことでございました。もうほんとに腹が立って、腹が立ってたまらんようなこともありました。けれども、ね、そこを神様のご都合とさしてもらい、御事柄と思い、成り行きを(?)のように大事にせろとおっしゃるから、そのことを一生懸命で、人事の限りを尽くして、受けて受けさせて頂きました。今日も今日これで終わらして頂きますが、明日またどうぞよろしゅう」と信心なのだ。
もうこれならね、絶対の(?)です。ね、そこんところです、一心を立てればというのは。おかげになるとおっしゃる。そこんところが、でけたりでけなかったり、しだごだにするから、おかげがしだごだになるのです。ね。
皆さん、ここの、もうこりゃいつも言うことですから、ね、ただ、その精進が少し違うことであると同時に、私は今日は、ね、一心を立てれば、ね、一心を出すとすぐにおかげが受けられるとおっしゃる、それなんだ。
その一心にならなきゃいけん、金光様のご信心さしてもらやぁ。ここんところに、私どもの信心が、ね、一切を切り替えさして頂いて、もうここ一つ以外にないと。あなたはそう言うけども、そうじゃないと(こういう?)のじゃなくてです。ね。
そのことをね、受けるということ。そのことに一生懸命ならにゃいかん。そのことに精進しなければいけない。「今日も、このこと、とても信心の(なからなきゃ?)、受られんことではございませんでした。日頃み教えを頂いておるおかげで、まあやっとかっとではありますけれども、受けさして頂くことができました」という一日でなかにゃいけんというのである。
これに徹する以外にはない。金光様の信心で本当におかげを受けるということは。教祖様が嘘をおっしゃっとるとは思われない。「一心を立つれば、すぐにおかげになる」とおっしゃった。ね。そして私は、そのことを頂いて、自分自身の信心のことを思うてみた。ね。何十年間の信心を振り返らして頂いた。
なるほど、金光様一本で、私どもは、いわば母の、母の胎内にある時から、もう金光様であった、いや、それも、私の場合なんかは、神様に願いに願ってでけて子供と言うてもよいくらいです。ね。
母が次々と流産をする。ね。それで、神様、先代の親先生のお取次を頂いて、お願いをさして頂いて、やっととまった。いわば、3人目に取り留めた。その3人目に取り留めたという、そのエピソードがあるんですけどね。
当時のあの、うーん、福岡日々新聞の新聞記者がやって来ましてね、椛目の3つ子がでけたげな、3人子がでけたげなというて、記者がやって来た。新聞記者が。それで、ばばが、あ、そげなことはなかと(言うてから?)、さ、あのー、うーん、( ? )そげん、あんた隠しなさらんでいいじゃないですか(と言うて?)、そんなこつもう親子(?)裏に寝とるけんで見て来んのっち言っちから、腹かいたっていう話がある。もう(生まれる?)早々から、何かそういうその、うーん、世を騒がせるような雰囲気を持ってるわけですよね。
ね、ただ家では、3人目にでけたと、こういうのである。それを次から次と枝が葉になって、はあ、なもう、ほんっとに、いうなら葉になるですよね。それがもうあられもない、もう、ことに進展しておる、いわゆる噂っというものはそんなもんだ。(くさがや?)でもそうです。そういうことが多いのである。
だから、昨日も私がある方が、そのー、私が言わ、言う、言われる。ある人が、信者さんの時ですよ、私にある信者さんの悪口を言われた。私もそれを聞いてからホーッち思うた。
ばってんそげなことを、言うこつもいう、また、あのー、うーん、またそれを(財産にせなんとに?)、話すことも話すのというて、ね、まあそして思うた。ね。( ? )、枝が葉になり、ね、葉がまたあられもないことになってきておるのであろうと(思う?)。それを(?)もし本人が聞いたら、根も葉もないことですから、どんなに、それこそ立腹して腹立てるか分かりません。(異様?)なことになってくるです。(事柄?)ってそんなもんです。
家庭ん中でもそうです、(流通?)し合うていない、通い合うていないとです、ね、(兄がああ思っとらんせんじゃろうか?)、こうじゃなかろうかと、嫁姑の仲なんかの場合なんかは、それが問題のもとになる。
だから、それがどういうことであってもいいのである。それが私に対する、(なら?)それが悪口であってもよいのである。ね。そこでムキになって腹かくことは何もいらん。そういう間違いもあろうと思わせてもろうたり、または、それがほんとであったにしても、(それがんなら?)合掌して受けようという気になるということ。そして、ほんとにそうだと、そこに一心を立てる。金光様のご信心とはそれなんだ。ね。
ね、そして、んなら私自身、自分の信心を、何十年の信心を振り返ってみてです、何十年間信心さして頂いた。それこそ、お腹ん中からの金光様ですから、金光様一本であったけれども、おかげは受けれ、受けられていなかったと。
それはもう、奇跡的なおかげはずいぶん頂いてまいりました。ね。初代の親先生が、ね、とにかく大坪さんのところはもう、不思議なおかげばっかり頂くとおっしゃるくらいに、もう、いわゆる奇跡的なおかげを(受けておる?)。それを見たり聞いたりしてきておる。
金光様とはあらたかな神様とは分かっておったけれどもです、そりゃ自分自身が信心さして頂くことは、ただ、その、おー、お願いをするというだけなんです。それも本当の願いじゃない、我情我欲の願いばっかりを何十年間続けてきた。30何歳まで。ね。
終戦、そして改めて、初めて今までの自分の信心の間違いが、ね、いわゆる信心が、いわば金儲けのため、おかげを頂くために信心があったのであった。ね。生活のために信心があったのであった。それが生活のすべてが、私の信心のためにあるのだということに、分からして頂くことになってきた。それが終戦後(?)。ね。
自分の頂いておる信心のために、生活のすべてがある。その生活の中には、痛いもありゃ、痒いもある。ね。損することもありゃ、儲けることもある。その一切が、自分自身の信心のためにあるのだということに、切り替えさせて頂く思いがでけたところからです、ね、私はほんとの意味においての信心がでけてきた。ね。
そして、大した時間を置かずしてです、ね、一切合財を、ね、神様が下さるものなら頂こうと。苦い物でも臭い物でも本気で頂く、それを修行とさせて頂こうと一心を立てた。これが今から考えてみると、たいへんなおかげにつながってきた、合楽の生まれる根本はそこであったと。ね。
どんなことでも、ね。受けようという気になってきた。ね。それは受けられんこともあったけれども、それこそ、( ? )もあったけれども、けれどもやはり受けてきた。(敵?)から申しましすと。
今日一日、もうほんとに信心どんがなからなければ、とても受けられることではございませんでしたけれども、(?)教えを頂いておりますおかげで、おかげで、まあどうやらこうやら、今日もそれを受け、継がせ、受けぬかせて頂きまして有り難うございますと、一日を締めくくる時に、そういうお礼ができれる日々が、だんだんできてくるようになって、今日に至った。
ですから、金光様のご信心はね、もうどーっでも(※強調)一つここんところを、一つ皆さんのね、ものにしてしまわにゃいかんです。ね。(とりあえず?)今日の、んなら、えー「信心もこの一心を出すと」という。
先生、もうこのことだけは、私はどげなことでん受けますばってん、このことだけは受けれませんという人がある。(笑)。これじゃあ一心じゃない証拠です。このことだけは受けられんのだから、もう二心じゃ。そうでしょ。
もう、他のばっかはどげな辛抱でんしますばってん、これだけは受けられません、一言(?)言わせて下さいというような。これではね、一心を立てたということにはならんの。
だから、ほんとに、な、なるほど馬鹿になってみなきゃできん。本気で、もう素直になることに努めなきゃダメ。ね。本気で、そこんところに一心を出すと、すぐにおかげが受けられるとおっしゃるのだから、こりゃ、なら私は、それはそれと気づかずして、そういう修行に取り組ませて頂いて、今さら、そこんところに気づかせる。
私がおかげ受けた。ここで人が助かるのは、そういう根本のところに、間違いのないところに焦点が置かれておるか。んならまだ、本気でけいこした立派なものとは言えません。これは一生かかってこのことを本気なものにしていくことでございましょう、金光様のご信心とは。
(一生?)神様の御事柄として、神様の御働きとして、それを受けていこうというのである。ね。損することもある、恥かしい思いをすることもある。けれども、けれども受けていくというのであるです。ね。
「一心を出すとすぐにおかげが」。ほんなら、そういう気になりましたばってん、すぐにおかげが受けられじゃった。なら、私の場合も何年間がそこにあった。ところがです、そういう気になるとですね、いわゆる、もう根っからのおかげを下さろとする働きが生まれるのです。
いわゆる、心から根から、おかげを下さろうとする働きがあるのです。だから、目には見えないおかげですけれども、(モノモニョ?)に入っていくおかげなん。それを心の中に、どういう難儀の中がここにあっておっても、心の中からは、もうどっから湧いてくるか分からんほどしの喜びが頂ける。それがおかげだ。これが、もうすぐに頂けるおかげなんだ。
皆さん、本気で(※強調)、もうその気になるという気になって下さい。もう神様の喜びが、もうあなた方の心に繁栄してきます。ね。それが、「すぐにおかげ」っちいうのは、それでしょうが。しかも、それが根のほうへずーっと入っていく。
「大坪さん、こういう難儀な中にほんとに有り難いのですか」と、久保山先生が聞かれよった。ね。ほんっとに有り難かったんですからね、私は。
もう食べるもんがなかろうが、着るもんがなかろうが、そんなこちゃなかった。もう信心が分からして頂く、その分からして頂いた信心を人に聞いてもらう。どこでもに話しに行く。
どこに困った人があると言や、どこに難儀な人があると言や、わざわざそこへ行ってお話をさしてもらう。もうそれがもう有り難うして有り難うしてこたんえんじゃった。これほんとですよ(※強調)。だからすぐにみかげ、これは自分の心の中に頂いた、すぐのみかげであった。ね。
なら、そういう信心はもう長くは続かなかった。もうそれにはね、枝が出てきて葉が出てきて、花が咲いて実が実ってきた。なるほど、すぐにみかげだ。神様、けっして嘘をおっしゃらん。それをここんところを、そういうふうに、( ? )思う。ちーっとオーバーに言うてござるとじゃろうちゅうごたる内容を、お互いが持っておるから、ここんところが分からんのである。
私も(?)一心、(フルに?)金光様一本。そしておかげが受けられんっちゃ、どういうわけじゃろうか。ね、その一心の立て所が違う。こりゃ、私の過去の何十年間の信心を言うて、そう言えれる。ね。
ひとたび、なら私どもの信心がです、ね、信心のために生活のすべてがあるということになってきた時です、ね。それが一切が、私の信心を肥やしてくれる、育ててくれる、それであることに気づかせて頂いて、おかげを頂いてまいりましたら、私達だけじゃない、多くの人が助かるほどしのことにまで、なってきたのであります。ね。
人事の(中にも?)尽くしておられる方がたくさんおります、ご信者さんの中にも、なら(教師?)の中にも。あれだけ真面目な先生、ね、あれほど熱心に、神様に打ち向こうてござるのに、どうして人が助からんじゃろうかというところがある。もう、私知っとる限りで(?)たくさんあるです。
ただ、その( ? )が、やっとかっと立っとるちゅうだけなん。ね。難儀な氏子の取次、助けの場になっていない。ねえ。それをです、見当違いのところに一生懸命なっとるわけです。いわゆる、人事の限りを尽くさして頂いて、あとは天命を待って、いうようなことになっとるわけなんです。ね。
天命を待っとるんやない、人、人事の限りを尽くさして頂いて、神様におすがりをするということまでにはなってる。けれども神様が言うことを聞いて下さらん証拠に、おかげになっていないということは。ね。
私はもう合楽で一番有り難いとか、ここんところをはっきり、この(よう?)に示して頂くことだと思うです。ね。そこにはね、もうなーーっ、「誰がそげなこつ言うたの」なんて言うことも、なーーにもっ(※強調)いらんです。そこのこと自体有り難く頂く。ね。
そげなこと思うちゃったわけです。そんなこつ言うちゃったのっち言うてから、腹かいちょる。昨日なんかも、それが何、何件もありましたよ。私、よー分かる、それ。ね。日頃、( ? )信心しよんのっち、何遍も言うた人があります。ね。
だからそこに、時点においてです、それを有り難く頂くことに人事の限りを尽くせと、もう他に尽くすことはいらん。そのことに尽くしぬいたらええっち。
ところが、なかなか難しいから、信心修行でも本気でさして頂いて、お取次を(常時?)願って願って、そんなことができますように願うのだ。も。どうぞ一つ、ね。
「草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐにおかげが受けられる」というところを、今日は、んー、(夕べ?)、私が頂きましたことから、ね、人事の限りを尽くして、そして、後は神様にお任せするより他にない。
いかにも素晴らしいごとあるけれども、その人事の限りの尽くし方が間違うとる。ね。一切を有り難く、いわば、受けさして頂くということに、人事の限りを尽くさなければならん。それでいて、天命を待つのであり、それでいて、神様におすがりをするというなら、これがおかげにならんはずが絶対にないと、いうことを申しましたですね。どうぞ。